24 June 2025

時代の洗脳

 


小6の子供のお友達の中に

兄妹の夕飯を作ったり面倒を見たりしている子が何人かいる

私は一人っ子で育ったけれど幼少期両親が共働きで家にいなく

アル中のネグレクトだったため夕ご飯を自分で用意したり

お弁当を作ったりしていたけれど

当時それがとっても嫌だった

それは周りのお友達は夕方になると母親の作った料理を食べていたし

運動会などの行事になるとみんな手弁当だったし

きっと当時のテレビドラマなんかにもそういったシーンが出てきて

それが幸せの象徴としての家庭のあり方だったんだと思う

けれど今は、幸せな家族をテーマにしたテレビドラマなんか流行らないし

ましてやテレビなんかより

YOUTUBEで個人の好みに合わせたコンテンツを選択できたりする

自分の好みで何もかも選択できる

スーパーに行って周りを気にして買い物をしなくても

UBER EATSなるもので注文できたりもする

私が幼少期に嫌だった孤独も

現代ではむしろ好まれいて

子供たちも親とのコミュニケーションよりも

YOUTUBEやゲームをすることの方を好むようだ

時代が変わると昔、普通だと思っていたことも普通ではなくなって

おかしいと思っていたことも普通になって

自分自身の幼少期に振り乱された感情はなんだったのだろうかと思う

価値観なんて所詮、大多数の価値観の中で決定され

メディアを通して洗脳されているだけなのではないだろうか

そう考えると、本当の私って

どこに存在しているのだろうか?

ただ時代に翻弄され流されているだけの

私なのだろうか?


15 March 2025

営業時間変更のお知らせ

 

   

午後の初心者クラスBは

月水木金曜日の12時〜になります

夜の営業は火曜日のみ19:00〜グループクラス

     それ以外の水木金曜日は19:30〜プライベートクラスのみになります

どうぞよろしくお願いします

22 June 2024

安中市でのヨガクラスと真の幸福とは

 

15年続いた冨岡のヨガクラスが

安中市へと移行します

毎週月曜日19:00-21:00です

ホームページから予約可能です


最近の私はというとずっと感情の手放しの修行をおこなってきた成果が出てきています

感情の波が現れても捉えることなく消えていってしまうのです

『今ここにいる』という感覚しか残っておらず

向かっていく道も降っていく道も私には全くありません

自分だけがただそこにいて全てを見渡しているようです

もはや人と比べることも言ってはいけないと思う言葉もなく

善悪がそこには存在しません

ただ私だけがありのまま存在しています

全ての出来事が風のように通り過ぎてゆき

全ての物事の純粋たる美しさを感じることができます

それは本質を見抜くという能力が開花したのかもしれません

視覚作用はほぼ崩壊し

感覚だけがそこに存在します

目で見た情報はなく

感じるという情報だけがそこに存在します

そうするとどこにいようと

誰と接しようと全ておんなじで

感じるものがより純粋であれば幸福を感じ

そうでなければ弾き返します

それらは私の純粋性と共鳴するからです

ネガティブなものは共鳴することができないので

自動的に弾いてしまいます

子供や動物、自然、祈りの深い場所などは

とても純粋物なので共鳴し幸福感を得ることができます

逆に私の中にネガティブな感情、嫉妬や妬み、怒りなどがあれば

それらのネガティブさと交わることとなり

対立や競争を生み共鳴することはなく

いつも争うこととなりエゴを喜ばせることになるでしょう

それはシャワーに入っただけの入浴と同じで

浴槽に浸かったような芯まで温まる感覚を得ることはできません

人間は勝ち負けから幸福を得ることはできません

どちらが正しいのかと言った概念から得るものは

ただエゴが喜びを感じているだけで

魂の幸福とは違います


真の幸福感は共感性です

それは純粋物同士でしか感じ合うことはできないのです

濁っている水にきれいな水を入れたとしても

透明にはならないように

自分と向き合ってどこまでも

『その思い』を浄化させないことには

真の幸福を得ることはできないでしょう


5 June 2024

陰と陽のバランス




 朝が来て夜が来るように

雨が降り晴天があるように

私たちの人生そのものにも隂と陽がある

良いことの後には悪いことがあり

それはいつも背中合わせにくっ付いてぐるぐる廻っている

私たちの今世だけではなく過去性全てを含めた輪廻と呼ばれているものも

きっと陰と陽のバランスをとっている

過去性で誰かの世話無しでは生きれなかった人の人生は

今世では誰かの世話を徹底的にすることで輪廻のバランスを取ろうとする

それは一体何の為だっていうのだろう

きっと何のためでもなく自分がそうしたいから

そうした人生を選択しているのだろう

甘いものを食べたらしょっぱい物が食べたくなるように

自分の記憶が感情を生み意思決定し選択しているのだろう

けれど自然や動物はどうだろう?

感情に従うではなく自然の調和に従っている

私たちも

「良いこと』や『悪いこと』といった

善悪に囚われず川の流れに身を任せるように

ただ流されてみてはどうだろうか

そうしたら陰や陽といった対極な概念すらなくなり

全てが交わって調和が生まれるのではないだろうか



2 April 2024

SNS





ソーシャルメディアを見ていると
こんなにも自分の存在価値を他者に認められたいという
心に隙間を持った孤独な人がいるんだなと感じる
自分が何者かって他者に認識されたいということは
きっと心がいつも満たされず
その隙間を承認されるということで
満たそうとする表れだろう


海は全てを受け入れる
雨も嵐も...
そして全て海になる
それは海が絶対的純粋物だから
何が来ても迷うことなくそれは海であるから


私が私であることは
私だけが知っている
社会が誰かと比べるという概念を作り出し
真の自分から私を遠ざけようとする
それは自然的ではなくとても人工的

私が私であるとういうことは二つと無い真実
一なるもの
比べて変えることなどできない
唯一無二な存在


「私はこうゆう人間です』
なんて誰かに言う必要なんてどこにもない
私が私のことを一番よく知っているから
そしてこの世界は
私の目に映る映像でしかないのだから
誰かの目に映った自分なんて
見ることは決して出来ないのだから

17 October 2023

サットサンガ




 毎日クラスが始まる30分〜60分ほどサットサンガを行なっています

サットサンガとは神様の集まりという意味合いを持っています

日常生活の出来事や世の中の出来事などに

ヨガの哲学や賢者の思想などを交えながら雑談し

先入観や誰かから押し付けられた概念

でジャッジメントしてしまう心のあり様を

中和させてから

ヨガの呼吸、

アーサナ、シャバッサナーそしてまた呼吸法へと戻り

最後は瞑想で終わっていきます

この旅は浄化の旅です

本来の私へと帰っていく旅です

そして何度も繰り返し修練していけば

やがて揺るぎない自分軸を達成することができます


お決まりの綺麗なポーズや

ダイエットのような外見的なものではなく

結果を求めるものでもなく

結果を出すものでもない

向かっていくものもなければ

目指すものもない

このヨーガは

ただただ本当の自分に帰っていく旅路なのです


18 August 2023

ディクシャ



 ディクシャとは『伝授』という意味で

聖者が秘宝やエネルギーを与え

本当の自分、思考なる存在へと直接繋いでくれる技法


ある時、お客様がこのディクシャを受けたとおっしゃっていて

私もとてもその行為にとても興味を持ち、調べ

インドでカルキバガヴァンという聖者が『誰でも悟りを開くことができる』

ディクシャを行なっていて

そのバガヴァンから直接その技法を伝授されたという方に

すぐさま会いに行ってきました。

今年の春頃だったと思います

頭に手をかざすだけという何とも怪しい疑う余地がない行為でしたが

私はそんな疑問もなぜか持たず

真っ新な気持ちでその行為を体験しました

そして

それはすぐさま強烈に私の中で起こりました

胸が本当に苦しくなり病院に行きたいほどです

そして涙が止まらないのです

私は過去生の中で

心が(ハートチャクラ)深くとても深く傷を負っていたことに

気がつきました

理想の人生という高い山を

何度も何度も一生懸命に登り

その中で裏切りや不信あらゆる傷を深く負っていたのです

そしてその後に強烈な気づきが訪れました

『登る山などどこにもない

何を必死で掴み取ろうとしていたんだろう』

必死でしがみついて

自分の中にある理想を達成しようと

様々な人生の中で頑張ってきた私

『だけれども

それはただただ過ぎ去って

死とともに消え去ってゆく』

強烈な『傷ついた』という

感情だけが輪廻のごとく永遠に存在していて

今世にも私の人生に影響を与えていました

それに気づいた時

何かが湯水の如く消え去っていき

『ただ私は今ここに在るだけ』と

肉体レベルでの悟りがやってきたのです

瞑想や肉体的修練を行なっていると

『その時』は必ずやってくるのだと思います

必死にもがいて理想という山を登り

頂上を目指し恐れや不安といった感情をまた生み出すよりも

今ここに意識を向け

『全てが気づきである』に意識を留める

そういった日々の鍛錬によって

その時は必ずやってくるのかもしれません

それ以降、半年経った今でも

その強烈な悟りという体験は消え去っていくことなく

未だに存在しています